Mulholland DINER

好きなものを思いのままに。ゲーム・映画・本は栄養。思ったことや考察などを書いていきます。

「ある少年の告白」〜神の存在・不在生についての考察(映画のネタバレあり)

f:id:MulhollandDrive-25Ward:20190602074226p:plain

 

 

 

マイノリティとして生まれてきたのは悪なのか?聖書の教えが人をより良い存在に昇華させるのか?自分の子供を救うのはクリスチャンとして生きてきた人間かはたまた一人の親としてか。何が正しくて何が間違っているのか。今なお現代のアメリカに蔓延っている問題をセンセーショナルに描く。

 あらすじ

アメリカの田舎町で暮らす大学生のジャレッドは、牧師の父と母のひとり息子として何不自由なく育ってきた。そんなある日、彼はある出来事をきっかけに、自分は男性のことが好きだと気づく。両親は息子の告白を受け止めきれず、同性愛を「治す」という転向療法への参加を勧めるが、ジャレッドがそこで目にした口外禁止のプログラム内容は驚くべきものだった・・・。

 

今回はこの映画の紹介も兼ねて髪について考察して見ました。なお、映画のネタバレを書いていますのでまだ見てない人は注意してください。

 

 

 

宗教とは何なのか?

そもそも神とは、宗教的とは何なのでしょうか?

 

宗教学者大田俊寛先生というお方がいます。この方の本を今年読んで感銘を受けたのでここで少し引用しながら話したいと思います。

大田先生の著書である「オウム真理教の精神史」(春秋社)には宗教のはしりについてこう書いてあります。(以下引用)

学問上でなお多様な議論が存在してるのは確かだが、多くの学説において、宗教の原初的形態は「祖先崇拝」に関わるものであり、家族内の死者を「祖先の魂」として祀るというものであった。そして家族は「祖先の魂」を中心に据えることによりその結束を保っていた。(P.30 1行〜5行)

現代のような個々人が集まり、国を超えてコミュニティが広がる時代より遥か前は祖先の魂を中心にする「家族的共同体」が営まれていました。しかし時が経つに連れ人間が形成する社会は複雑推移になりそれにより社会や共同体というのはより大規模なものになっていきます。

 

続いて神の説明についても次のように書かれていました。

 

人間のつながりが複雑になった結果それまでの家族的共同体では十分ではなくなり、より高度で精妙な「虚構の人格」が必要になりその存在がいわゆる「神」と一般的に言われるようになった。

 神というのは各地域の自然物から象徴的に表したことも多く、それぞれの土地の地域的社会を結ぶためのシンボルだった。そこから神話や神などが複数生まれた。

しかし各地域を制圧する帝国が誕生すると多神教的信仰が排除され、世界全体を治める唯一絶対の神(一神教)を定めた。

また、特定の人だけではなく、一定の条件を満たせば誰でも共同体に参加できるので、あらゆる人間、民族にとって平等に提示された。(P.31)

 

 このように人々の信仰の対象であった神というのはむしろ玉石混交の人々を1つにまとめるために誇張された「虚構の人格」であることがわかります。古来から人々は、様々な人格を作り、それに合わせた様々なタイプの社会を作り上げてきました。

 

宗教とは何か。それは「虚構の人格」を中心として社会を組織し、人々のつながりを確保する存在。「虚構の人格」は自然的には存在しないものだがそれゆえに自由に形を変えることができる。そして人間は様々な神話や儀礼を作り出して様々な「虚構の人格」を作りその存在に基づくさまざまなタイプの社会を作り上げてきた。(P.32)

このように宗教とは、神というのは古来はさまざまな地域の人々をまとめるために作り出した「虚構の人格」であることが分かります。人と人との関係が大規模になるにつれてそれをまとめ上げるために見出されたと考えるのはとても自然なことであり、興味深い。

誰が彼らを救うのか?

宗教は、信じるものは救われる、と昔から言われてきました。目に見えないし会えないが確かにそれは存在する。不確定だけどそれを純粋なまでに信じきることで報われる。

 

主人公はある牧師の一家に生まれました。父親は神父であり、いつも教会で説教を開き、人々に教えを請うている。

恐らく幼少の頃から牧師の、教会の世界が身近にあり、ずっと見てきたと思います。

 

自分はこの映画を見た時、ずっと違和感を感じ続けました。それは、「宗教というのは弱者の側に寄添わなければいけないのになぜそれをしないのだろう?」という考えです。

主人公は同性愛者です。それは世間から見ればどうしてもマイノリティ側として見られる。世間の風潮としては異性愛者が多くを占めていると思います。その中ではやはり弱い立場と思わざるを得ない。もし告白したら特異な目で見られることも否定できません。

劇中で思わぬことで彼自身が両親の前で自分を同性愛者と告白するシーンがあります。

しかしそれを聞いた父親はまともに話し合うとせず矯正施設に入れることを決意します。

 

もちろん今まで体験したことがない現実を経験し、聖書をずっと信じてきた父親としては困惑し、悩み、苦しんだと思います。

しかし、宗教を信じるけれど自分の子供を信じない場面を見てしまうと、見ているこちらとしてもショックでした。

 

没個性の強要

両親はその後、LIA(ラブ・イン・アクション)と呼ばれる同性愛矯正キャンプに入所します。そこではいくつかの治療プログラムがじっしされます。徹底した人格否定が行われ、キリストが絶対的存在であり、己は罪を背負って生まれたのでイエス・キリストに全てを委ねるという思想が植え付けられます。これは軍隊の新兵訓練、カルト宗教、自己改革セミナーなどで行われており、それまでの自分を殺してその環境での新しい自分に生まれ変わらせるという「イニシエーション(通過儀礼)」のこと。

 

ããã«ã¡ã¿ã«ã¸ã£ã±ãããã®ç»åæ¤ç´¢çµæ

1987年に公開された「フルメタルジャケット」でも同様に軍隊内での徹底した人格矯正が行われます。そこでは与えられたメニューをこなせなかったり規律が乱れたら罵詈雑言が飛び、誰かが失敗すると連帯責任を取らされ、ロボットのような整頓された動きを求められます。それまでの自分を訓練により1回そこで殺し、その後与えられたミッションをこなしていく兵器として生まれ変わる。

主人公であるジョーカーのヘルメットには「born to kill」と書かれてあり、まさに生まれながらの殺し屋、殺すために生まれてきた存在へと変わっていく。何物にも貫ける、まるで一発の鉛で覆われた弾丸(フルメタルジャケット)になり戦場を駆ける。

 

軍隊内では個性は認められず、それはこのLIA施設内でも同様のことを認められます。

少しでも自分を出すと激しく罰せられ、その究極の方法が中盤で描かれた「葬式ごっこ」です。周りの人間の前で聖書でぶん殴られ周辺の人間にもそれを強要する。究極の人格抹殺方法で青少年には大きなトラウマを残すことになる。

また、閉鎖された施設内ではあらゆるものが抑圧され自由がない。好きなこともできず、本やネットは当然禁止され、ポルノも禁止される。単独行動も規制され、トイレに行くのも係員がついていき、見ている前で用をたさなけばいけない。

 

隅々まで行き渡った監視や行き過ぎた一部の指導者による全体主義権威主義はカルト宗教にも見受けられます。

1980年代〜90年代にかけて日本に混沌をもたらした「オウム真理教」の施設内は指導者のみならず、信者同士による監視が行われていたと聞きます。

信者を増やす一方、麻原は自らの考えに反抗する意思や能力を信者から奪うためにさまざまな洗脳施策を取りました。LSD覚せい剤により神秘体験を誘導する「キリストのイニシエーション」、電気ショックにより記憶を消す「ニューナルコ」などさまざま服従を要求します。

 

ですが、一方で、

「ポア」と称して脱退者をリンチによる殺害を行なったり、「ポアの間」と呼ばれる麻原の説法が24時間流れる部屋に1週間監禁され、中には真夏にストーブ、睡眠禁止など過酷なものもあるなど自分の意思に反するものは徹底的に弾圧されます。

前述した通り、麻原という指導者が絶対的な存在として君臨し自分に反対する懲罰も含め指導しているのを見るとオウムという団体は麻原という全体主義あるいは権威主義が横行していたと言わざるを得ない。

 

対してLIAイエス・キリストという絶対的な存在を使い利用者を服従させる、あるいはヴィクター・サイクスという牧師の指示が全てであり、反すると恫喝され存在そのものを否定する言葉を投げかけ追い込むなどの行為は前述した軍隊のしごきやカルト宗教の習慣と共通するものがあります。

 

神の不在性

LIAでの強烈なしごきを受けた主人公は父親に助けを求めます。しかし父親はそこに行けば救済されると信じている。結果的に相手にされずサイクス達からさらなる洗礼を受けることになります。

この時は映画を見ている自分も何を信じていいか、また宗教の重要性、キリスト教の存在意義がだんだん理解できなくなりました。

 こんなに困っている人がいるのになぜ神様は答えてくれないのか、というメッセージはこれまでのいろんな作品にも見ることができます。

 

f:id:MulhollandDrive-25Ward:20190602075359p:plain

2012年に公開された朝井リョウ原作「桐島、部活やめるってよ」という映画があります。作品の舞台は高校なのですがそこには「桐島」と呼ばれる校内でもカリスマ性を持ちクラスの人気者という存在がいます。この桐島がある日所属していた部活をやめ突然行方をくらますところから話が始まる。

何も理由を告げずに突然消えるので周囲は混乱し、それまで普遍的な存在である桐島がいなくなったことにより関係も悪くなっていきます。

この映画では桐島を神という一つのアイコンとしてみることができます。クラスメートたちは桐島こそすべてで彼のことを今まで信用して学校生活を送ってきました。そのクラスの象徴である彼がいなくなることにより何をするのか、何を信じればいいのか、どうすればいいかが途端にわからなくなることが浮き上がってきます。つまり自分で物事を考えられなくなる。いきなりはしごを外されてしまった彼らはなんとか桐島を探そうと校内を駆け巡ります。

 これは簡単に言えばクラスの人気者である彼がいなくなることによる周囲の感じ方を描いているように見えますが、実は「桐島」という神がいなくなることによりそれを信じてきた人々の戸惑いや迷いを戯画化して描いている。

www.amazon.co.jp

 

1953年に公開されたサミュエル・ベケットによる戯曲「ゴドーを待ちながら」にはある二人の男が「ゴドー」という人物を待っている。しかしこの二人は「ゴドー」という人物に会ったことがない。いくら待っても現れませんが、待っている。

 ゴドーという人物が何者かというのは全く明かされませんがここでいう「ゴドー」は神(God)を意味しているのではないかと思います。つまり神をいくら待っていたとしてもそれは現れてくれない。

 

じゃあ神はどこにいるのか?それにまつわる一つの回答がこの映画にあります。

 

ある日ジャレットはゼイヴィアという青年に出会います。彼の部屋に導かれたジャレットは思わず胸の内を吐露します。その時にゼイヴィアはこのように話します。

「神というのは自分自身のこと。みんなの中に、僕たちの中にある。自分自身が神なんだ」

 

一見すると「神」というのは自分の外側の存在としてあり、それを祈るものと思いがちです。しかし相手の弱さや自分の内なる苦しみを救うのかというと、それは自分自身が決めることであり、自分でその裁量を図ることができる。相手を許すも許さないのもそれはすべて自分次第であり、他者ではない。

誰かを待っていても自分の生き方を決めてくれるわけでもなく、それは自分で生き方を決めるということ。ゼイヴィアはそれを教えてくれたのです。

 

 神の沈黙

f:id:MulhollandDrive-25Ward:20190602075654p:plain

 

「沈黙−silence」にも内なる神との対話をモチーフにしている。主人公のロドリゴは宣教師です。ある日彼の師匠が日本で宣教師をやめたとの一報を受け同僚と一緒に日本にやってくるという話。

 

この頃の日本はキリシタン弾圧が盛んでどうしてもキリスト教をやめない信者に対して重い罰を下したり、その究極の方法として政府が信者に対してキリストの絵が描かれた絵を踏まさせる事(踏み絵)を試されていました。現地の信者である人々をなんとか救おうとし、踏み絵の現場では戸惑う信者に対し踏むことを許すのですがそれでも弾圧は続けられる。ここではなぜ純粋に神を信じている人々が拷問や処刑されても、神は何もしないのか?という疑問や問いかけが伝わります。神が我々を見ているならばなぜ手を差し伸べないのか?宣教師である主人公は戸惑いを隠せない。旅の行く先々で弾圧される人々を目の当たりにし、まるでその旅が一種の試練として描かれる。

 

さて、この話には「キチジロー」という一人のキーパーソンがいます。彼は旅のいく先々で現れその度に許しを請う。

彼は自分の命が助かるならば“転ぶ”(棄教するという意)事を行い、人を裏切り、場合によっては唾を吐くなど、侮辱的行為を行います。けれども何度もキリスト教に戻る姿を見てロドリゴ達は嫌悪感を示す。

ロドリゴ達宣教者・周りの切支丹とキチジローの関係は真逆と言っていいくらいです。しかし両者を見比べてわかることが出てくる。

 

それは踏み絵というのは形式的なものであって、たとえそれを行なったとしても信仰心までは捨て去らない。一回の踏み絵で信仰が終わるのではなくキチジローのように何度も何度も転んだとしても神にすがることこそが大事なのではないかと。本当に大事なのはそれを信じ続けることなのだとキチジローは彼自身の行動で示します。それはひたすらまっすぐに、這いつくばってでも愚直なまでにキリストにすがる姿は、転んでも転んでもずっとキリスト教徒であり続けることが信仰そのものだと我々に教えてくれるのです。

終盤、ロドリゴも踏み絵を行うときが来ます。踏むのを躊躇しているとそこで初めて「それでいい。踏みなさい」という内なる心の声でキリストの声を受け取るのです。

主人公は転ぶ(キリスト教を棄教)ことを選び、その後彼が亡くなった時、密かに十字架を隠し持っていたことがわかってこの映画は終わります。

 

 いくら問いかけても神様は答えてくれません。「桐島~」でもどんなに桐島にメールや電話をかけても、名前を呼んでも彼は一向に現れません。しかし「桐島~」では桐島を信頼してた人物が彼がいなくなったことによりたくさん苦悩してようやく自分がやりたかったかもしれないものを見つけるところで映画が終わります。

これはつまり、自分がやりたいもの=自分の中に神を見出しだ といえるのではないでしょうか?

 

神というのは「いる」のではなく「寄り添っている」。外から見ているのではなく、自分の内に見出す存在が「神」なのではないか、と思うのです。

 

 父親(宣教者)との邂逅

「ある少年の告白」の最後、自分の父親と二人きりで話すシーンが出てきます。自分を助けようとしなかった父親と変わろうと努力しようとした息子。この映画の最後はそんな親子のある変化があったことが分かりこの映画は終わります。主人公は父親を許すのですが、これも自分の中に神を見出したからできたことだと思うのです。

 

総括

宗教とは?神とは?家族とは?と本当に考え支えてくれる作品で、今の時点での今年見た映画で一番いい作品でした。

 

この映画は古来からある普遍的な疑問を提示してくれた作品です。それはつまり「神はどこに?」ということ。これは哲学的な問題でもあるし非常にデリケートな問題です。

 

宗教を重視するあまり自分の家族を信じない、その問題から目を背けるために施設のいうことを盲目的に信じてしまう家族はたくさんいるし、同時にその親の言うことを聞くしかなく悲惨な目にあっている子供達もたくさんいる。家族に助けを求めてもそれをないがしろにされてしまい、結果的に最悪の状況に追い込まれる。

 

何を信じるべきか?キリストの教えに従うのか、それとも宗教を信じるのではなく目の前で苦しむ自分の子供を助けるのか。クリスチャンとして生きるのか、一人の親として生きるのか。今もまだ、アメリカで行われている現実の問題について考えさせられる1本です。

 

参考文献

大田俊寛(2011)「オウム真理教の精神史-ロマン主義全体主義原理主義」(春秋社)ISBN-10: 4393323319

オウム真理教の修業一覧『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2019年6月2日8時(日本時間)現在での最新版を取得。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99%E3%81%AE%E4%BF%AE%E8%A1%8C

 発行者:大田圭二(発行日:2019年4月19日)「ある少年の告白-BOY ERASED」(映画パンフレット)