Mulholland DINER

好きなものを思いのままに。ゲーム・映画・本は栄養。思ったことや考察などを書いていきます。

The Last Of Us 2 レビュー

作品の続編とはどのように作るべきだろう?---前作で残った複線の回収?新たな敵の追加?操作性の拡張性?キャラクターの過去の深堀り?選択肢は豊富にある。しかしそれがただの続編ではなく「完璧に」完結させた作品の続編だとするならばこれは一筋縄ではいかない。

The Last of Us Ⅱ」は2013年に発売された「The last of Us」の続編だ。謎の感染症が起きパンデミックが起こったアメリカを舞台にまったくの他人同士であるジョエルとエリーが感染者や武装した人間から生き抜く話である。血がつながっておらずまったくの初対面である二人が極限の状況を生き抜く間にまるで本当の親子のような絆が結ばれるという展開はこのゲームをプレイした多くの人の心を掴んだ傑作だ。ゲーム史に残るマスターピースと言われた1作目は全世界で200以上のゲームアワードの賞を総なめした。


今作のThe last of Us Ⅱ は前作から5年たった世界を描いている。前作を生き延びたジョエルとエリーはジョエルの弟であるトミーがリーダーを務めるコミュニティ町であるジャクソンで平和に暮らしていた。しかしある出来事が起こり彼女らの生活が一変、エリーはその復讐を果たすべくシアトルへ旅立つ---


ほんの数日前にこのゲームをクリアした。そして今こうして筆を執っている。率直に申し上げるとかなり評価が複雑だ。決してつまらないわけではなく、ゲームの面白さ自体は保証されておりクオリティは抜群に高い。いやかなりトップレベルだ。しかしそれはゲーム性だけで見ると、だ。間違いなく「賛」だ。しかし本作のストーリーのそれは自分の中でもかなり揺れた。それはこうしてゲームをクリアした現時点においてもいい部分と悪い部分の葛藤がすごい。素直にほめる部分もあるし実際にゲームをプレイしてみて良いところもある。しかしそれ以外の、特にエリーに対する今作の描写は果たしてあれでよかったのか?復讐に駆られ果てしない死闘を繰り広げ最後にある行動を下す。それを見届けたが自分の中で無理やり納得させられた終わりになった。理解はできるが何かの見込めない感情があるのは事実だ。それを書き込んでいこうと思う。なおこの感想は自分の100%の主観で思ったことのみを書いていく。もちろんこの感想がすべてではないということはあらかじめ説明しておく。

・ジョエルのあっけない死

前作の「TLOU」は序盤のいたって普通の家で暮らすところから始まりパンデミックが起きて町が崩壊していくところが一つの風景として描き出される。一瞬で平穏さが失われる絵作りは緊迫感にあふれその逃走劇の最後に待ち受ける悲劇にはだれもが呆然とせざるを得ないだろう。そして月日は流れ完全に廃墟と化したアメリカでの生活感がプレイヤーの前に現れる。ジョエルはレジスタンス組織である「ファイアフライ」からエリーという名前の一人の少女をある地点まで運んでほしいと依頼を受け、長い旅路を共にすることになる。

TLOUは全くの接点がないジョエルとエリーが死闘を共にするにつれてまるで本当の親子のように見えてくるのが最大の魅力だった。しかもセリフで全く説明することがなく映像で説明する。切れ目があったのにいつの間にか二人の距離が埋まっている。どこからどこまでという野暮なものなどなく滑らかな描写でその脚本力や人間描写の力量はすさまじい。

The Last of Us」というタイトルの意味、これは直訳すると「私たちの最後」という意味だがまさに終盤、ジョエルの取った行動が果たして正義なのか、悪なのか、という問いと直結する形となっている。それは片方から見れば一見正しいように見える。しかし相手側からしてみればたまったものではない、希望が打ち砕かれるような行為。果たして最後に取った行動が100%正しいのか?万人に聞かれて万人とも同じような答えなのか?正解かどうかわからない。ただジョエルの信念はプレイヤーから見てもエリーから見てもその信念を否定はできない。だからこそ心が掴まれる。そんなラストだった。

そして今作はその前作のラストのジョエルが起こした問題がある問題と直結して描いている。ある行動を起こしてある惨事が起きてそれが破滅への道のトリガーになることがわかる。ゲームが始まってエリーのキャラ操作から始まり途中で新キャラであるアビーに切り替わる。ある程度進めるとアビーの目的がある人物への復讐だということがうかがえる。それがジョエルだということが会話の節々で分かってくるのだがアビーとジョエルが出会うタイミングが間を置かずに唐突に出会うのが気になる。というよりもジョエルがアビーに吸い寄せられた形か。アビーがコミュニティ町である「ジャクソン」を見下ろせる崖に立ち、そこから町に向かうのかと思いきや吹雪に見舞われ探り探り散策する。その結果ジョエルが陣を張っているキャンプ地に「迷い込む」。そこがあまりにも都合がよく唐突に描かれる。大事な部分、じわりじわり見せていくいわゆる「タメ」の部分がなくばったり出会う。その温灸さが垣間見れないのがまず気になった。ばったりと出会ったジョエルとアビー。彼らは感染者が迫りくる場所から命からがら逃げる。「何かいい場所はないか?」と尋ねるジョエルにアビーが「いい場所があるよ」と自らの仲間が待ち受ける「家」にジョエルらを誘い込む。それがゲームが始まって1時間もしないうちに復讐という目標が達成される。あっという間だった。いやもっと短いスパンで終わる。父性的な象徴であるジョエル殺害を序盤に持ってくるのはインパクト狙いでもプレイヤーの憎しみを湧き出すエッセンスという意味でも最初に持ってくる気持ちはわかる。でも如何せん導入の仕方が雑だったように思える。もっとジョエルを操作したりエリーとの交流を楽しみながらゲームを操作したかった。余韻を楽しむ前に終わったのは残念に感じる。


・エリーの存在そのものやエリーの起こした行動、ジョエルの存在すべてがアビーのキャラ付けの前座に感じた。

本作はエリーとアビーの関係がコインの裏表のように描いているのが特徴だ。まず最初はエリーがシアトルについてからが一日目として始まり、3日目にアビーと再会するまでを一つのシークエンスで区切る。エリーはアビーたちがシアトルで活動するWLFという組織であることを突き止めシアトルまで出向きアビーの仲間を殺していきながら徐々に追い詰めていく。
ゲームを進めいていく過程で分かるのだがエリーの行動が進めば進むほどエリーの印象が下がっていく。WLFの手下を何十人も殺しアビーの身近にいたキャラをどんどん手にかけていく。敵側のキャラに救いの手を差し伸べたりする「惰性」もない。ただ人を殺していく。

エリーの話を貫いていけば説得力はあるように見えた。しかしアビーと再会するところで物語はアビー視点として第二部が始まる。アビーを憎いまま終わらせるのではなく、アビーの人生をそこで追体験させる。エリーが1日目~3日目までの話を作ればアビー編も同じように1~3日目までを追体験させる。そこまではいい。しかしアビー編はアビーの素朴な純粋さ、仲間を大切にする心意気、純粋なまでの気遣い。すべてがいい人として描かれる。そしてアビーの所属するWLFと抗争を繰り広げている「スカー」と呼ばれる団体の少女たちを自分の命を懸けてまでも守る。たとえ戦争をしている相手でも情をかける。ここで思ったことは「エリーとして」物語を進めているはずがそのプレイヤーがしたことを否定された気持ちになった。

真逆のストーリーラインをしようというのはまだいい。エリーの3日目のアビーとの対決間近で話を中断させアビーの視点に代わり同じように1日目から3日目までの時間を体験させそのままアビー側でエリーを倒させる展開は「アビーというキャラの正当性」を確立させようと描いているようにしか思えずどっちの立場で話を描きたいのかが不透明な印象に思えた。

・エリーを追い詰めるような話の展開

そしてエリー一人につらいことを押し付けすぎるように感じた。前作のラストでエリーは自身がウイルス解決のカギになると信じており自分を犠牲にしてワクチンを作ろうという決断をしていた。しかし寸前でジョエルにその行為を「止められた」。そして2の冒頭ではジョエルと喧嘩をして関係が冷えているところから話が始まる。彼女自身のウイルスの抗体持ちがこの物事を解決するかもしれないというアイデンティティを失った状態でさらに追い詰めるのはとても残酷に感じ、「ひょっとしてエリーというキャラクターを殺したいのでは?」と思わずにはいられない。
そして新キャラのディーナも問題がある。なぜ妊娠していることがわかるのに一緒に来ようと思ったのか?間違いなくエリーの足手まといになるはずなのにそれを隠してでも一緒に来たのは無責任。

シアトルの3日目、アビーと対峙したが仲間は一人殺され、トミーはケガをし、そしてエリーはアビーとの対決に敗れ故郷に帰るエリー達。そこにトミーが訪れ復讐をもう一度果たそうとエリーに問いかける。しかし自分は負傷して同行できないと告げる。エリーもディーナと落ち着いた生活をしており当然躊躇する。それをわかっているのに焚きつけるのは大人のやることか?自分が提案したのなら自分も付き合うべき。それなのに無責任すぎる。そのやり取りがあるから二回目の復讐の旅は無理やり連れだされた感じがした。そして二度目のエリーとアビーの死闘。ジョエルの顔を思い出しアビーの命を奪うことをやめてアビーたちを逃がす。自身の左側の薬指と小指をなくすのに引き換えて。指がなくなったということはギターが弾けなくなる。唯一ジョエルとのつながりであるギターを弾くという行為そのものすら奪われる。家路についたらディーナは出ていき一切の家具も持っていかれた。あるのは空っぽの家のみ。エリーも家を出ていく。徒労に終わった。全部が。

復讐の果てに許すという決断を描きたいというのは感じ取られた。しかしその「結」にいたるまでに無理やりに納得させられたという印象が自分の中で強く残った。結果的にエリーがジャクソンを旅立つ前よりも圧倒的に状況が悪くなり孤立させられ挙句の果てに「The Last of Us」という作品から追い出されたように思えた。居場所も全部奪われ制作者から迫害されたようなそんな無慈悲さは十二分に伝わる。なんというか、エリーに対する愛情が今作の作り手側には果たしてあったのだろうか、と疑問を持たずにはいられないそんな作品だった。最後には燃えカスのような、焦げすぎて原型がよくわからない燃焼されたものしか残らなかった。


長所
風景の美しさと文明の退廃との親和性
戦闘の幅の広がり方
「復讐」のやり方の徹底さ

短所
エリーというキャラの蔑ろさ
新キャラの描き方の物足りなさ
エリーとアビーを主軸に置きすぎて新勢力の描き方が遅れた印象に見えたところ

総評
TLOU2は伸びしろは感じられたし面白いところは多々見受けられた。しかし前作で話がきれいに完結しすぎてその続編にしては要求される様々なハードルを乗り越えるには高すぎた。戦闘の多様性や思った以上に泥臭いマップの作り込みやキャラクターとのぶつかり合いはとても好印象であるが「復讐」というものを突き詰めようとしてそれ以外のものまで引きずられた印象になってしまった。

「ある少年の告白」〜神の存在・不在生についての考察(映画のネタバレあり)

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マイノリティとして生まれてきたのは悪なのか?聖書の教えが人をより良い存在に昇華させるのか?自分の子供を救うのはクリスチャンとして生きてきた人間かはたまた一人の親としてか。何が正しくて何が間違っているのか。今なお現代のアメリカに蔓延っている問題をセンセーショナルに描く。

 あらすじ

アメリカの田舎町で暮らす大学生のジャレッドは、牧師の父と母のひとり息子として何不自由なく育ってきた。そんなある日、彼はある出来事をきっかけに、自分は男性のことが好きだと気づく。両親は息子の告白を受け止めきれず、同性愛を「治す」という転向療法への参加を勧めるが、ジャレッドがそこで目にした口外禁止のプログラム内容は驚くべきものだった・・・。

 

今回はこの映画の紹介も兼ねて髪について考察して見ました。なお、映画のネタバレを書いていますのでまだ見てない人は注意してください。

 

 

 

宗教とは何なのか?

そもそも神とは、宗教的とは何なのでしょうか?

 

宗教学者大田俊寛先生というお方がいます。この方の本を今年読んで感銘を受けたのでここで少し引用しながら話したいと思います。

大田先生の著書である「オウム真理教の精神史」(春秋社)には宗教のはしりについてこう書いてあります。(以下引用)

学問上でなお多様な議論が存在してるのは確かだが、多くの学説において、宗教の原初的形態は「祖先崇拝」に関わるものであり、家族内の死者を「祖先の魂」として祀るというものであった。そして家族は「祖先の魂」を中心に据えることによりその結束を保っていた。(P.30 1行〜5行)

現代のような個々人が集まり、国を超えてコミュニティが広がる時代より遥か前は祖先の魂を中心にする「家族的共同体」が営まれていました。しかし時が経つに連れ人間が形成する社会は複雑推移になりそれにより社会や共同体というのはより大規模なものになっていきます。

 

続いて神の説明についても次のように書かれていました。

 

人間のつながりが複雑になった結果それまでの家族的共同体では十分ではなくなり、より高度で精妙な「虚構の人格」が必要になりその存在がいわゆる「神」と一般的に言われるようになった。

 神というのは各地域の自然物から象徴的に表したことも多く、それぞれの土地の地域的社会を結ぶためのシンボルだった。そこから神話や神などが複数生まれた。

しかし各地域を制圧する帝国が誕生すると多神教的信仰が排除され、世界全体を治める唯一絶対の神(一神教)を定めた。

また、特定の人だけではなく、一定の条件を満たせば誰でも共同体に参加できるので、あらゆる人間、民族にとって平等に提示された。(P.31)

 

 このように人々の信仰の対象であった神というのはむしろ玉石混交の人々を1つにまとめるために誇張された「虚構の人格」であることがわかります。古来から人々は、様々な人格を作り、それに合わせた様々なタイプの社会を作り上げてきました。

 

宗教とは何か。それは「虚構の人格」を中心として社会を組織し、人々のつながりを確保する存在。「虚構の人格」は自然的には存在しないものだがそれゆえに自由に形を変えることができる。そして人間は様々な神話や儀礼を作り出して様々な「虚構の人格」を作りその存在に基づくさまざまなタイプの社会を作り上げてきた。(P.32)

このように宗教とは、神というのは古来はさまざまな地域の人々をまとめるために作り出した「虚構の人格」であることが分かります。人と人との関係が大規模になるにつれてそれをまとめ上げるために見出されたと考えるのはとても自然なことであり、興味深い。

誰が彼らを救うのか?

宗教は、信じるものは救われる、と昔から言われてきました。目に見えないし会えないが確かにそれは存在する。不確定だけどそれを純粋なまでに信じきることで報われる。

 

主人公はある牧師の一家に生まれました。父親は神父であり、いつも教会で説教を開き、人々に教えを請うている。

恐らく幼少の頃から牧師の、教会の世界が身近にあり、ずっと見てきたと思います。

 

自分はこの映画を見た時、ずっと違和感を感じ続けました。それは、「宗教というのは弱者の側に寄添わなければいけないのになぜそれをしないのだろう?」という考えです。

主人公は同性愛者です。それは世間から見ればどうしてもマイノリティ側として見られる。世間の風潮としては異性愛者が多くを占めていると思います。その中ではやはり弱い立場と思わざるを得ない。もし告白したら特異な目で見られることも否定できません。

劇中で思わぬことで彼自身が両親の前で自分を同性愛者と告白するシーンがあります。

しかしそれを聞いた父親はまともに話し合うとせず矯正施設に入れることを決意します。

 

もちろん今まで体験したことがない現実を経験し、聖書をずっと信じてきた父親としては困惑し、悩み、苦しんだと思います。

しかし、宗教を信じるけれど自分の子供を信じない場面を見てしまうと、見ているこちらとしてもショックでした。

 

没個性の強要

両親はその後、LIA(ラブ・イン・アクション)と呼ばれる同性愛矯正キャンプに入所します。そこではいくつかの治療プログラムがじっしされます。徹底した人格否定が行われ、キリストが絶対的存在であり、己は罪を背負って生まれたのでイエス・キリストに全てを委ねるという思想が植え付けられます。これは軍隊の新兵訓練、カルト宗教、自己改革セミナーなどで行われており、それまでの自分を殺してその環境での新しい自分に生まれ変わらせるという「イニシエーション(通過儀礼)」のこと。

 

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1987年に公開された「フルメタルジャケット」でも同様に軍隊内での徹底した人格矯正が行われます。そこでは与えられたメニューをこなせなかったり規律が乱れたら罵詈雑言が飛び、誰かが失敗すると連帯責任を取らされ、ロボットのような整頓された動きを求められます。それまでの自分を訓練により1回そこで殺し、その後与えられたミッションをこなしていく兵器として生まれ変わる。

主人公であるジョーカーのヘルメットには「born to kill」と書かれてあり、まさに生まれながらの殺し屋、殺すために生まれてきた存在へと変わっていく。何物にも貫ける、まるで一発の鉛で覆われた弾丸(フルメタルジャケット)になり戦場を駆ける。

 

軍隊内では個性は認められず、それはこのLIA施設内でも同様のことを認められます。

少しでも自分を出すと激しく罰せられ、その究極の方法が中盤で描かれた「葬式ごっこ」です。周りの人間の前で聖書でぶん殴られ周辺の人間にもそれを強要する。究極の人格抹殺方法で青少年には大きなトラウマを残すことになる。

また、閉鎖された施設内ではあらゆるものが抑圧され自由がない。好きなこともできず、本やネットは当然禁止され、ポルノも禁止される。単独行動も規制され、トイレに行くのも係員がついていき、見ている前で用をたさなけばいけない。

 

隅々まで行き渡った監視や行き過ぎた一部の指導者による全体主義権威主義はカルト宗教にも見受けられます。

1980年代〜90年代にかけて日本に混沌をもたらした「オウム真理教」の施設内は指導者のみならず、信者同士による監視が行われていたと聞きます。

信者を増やす一方、麻原は自らの考えに反抗する意思や能力を信者から奪うためにさまざまな洗脳施策を取りました。LSD覚せい剤により神秘体験を誘導する「キリストのイニシエーション」、電気ショックにより記憶を消す「ニューナルコ」などさまざま服従を要求します。

 

ですが、一方で、

「ポア」と称して脱退者をリンチによる殺害を行なったり、「ポアの間」と呼ばれる麻原の説法が24時間流れる部屋に1週間監禁され、中には真夏にストーブ、睡眠禁止など過酷なものもあるなど自分の意思に反するものは徹底的に弾圧されます。

前述した通り、麻原という指導者が絶対的な存在として君臨し自分に反対する懲罰も含め指導しているのを見るとオウムという団体は麻原という全体主義あるいは権威主義が横行していたと言わざるを得ない。

 

対してLIAイエス・キリストという絶対的な存在を使い利用者を服従させる、あるいはヴィクター・サイクスという牧師の指示が全てであり、反すると恫喝され存在そのものを否定する言葉を投げかけ追い込むなどの行為は前述した軍隊のしごきやカルト宗教の習慣と共通するものがあります。

 

神の不在性

LIAでの強烈なしごきを受けた主人公は父親に助けを求めます。しかし父親はそこに行けば救済されると信じている。結果的に相手にされずサイクス達からさらなる洗礼を受けることになります。

この時は映画を見ている自分も何を信じていいか、また宗教の重要性、キリスト教の存在意義がだんだん理解できなくなりました。

 こんなに困っている人がいるのになぜ神様は答えてくれないのか、というメッセージはこれまでのいろんな作品にも見ることができます。

 

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2012年に公開された朝井リョウ原作「桐島、部活やめるってよ」という映画があります。作品の舞台は高校なのですがそこには「桐島」と呼ばれる校内でもカリスマ性を持ちクラスの人気者という存在がいます。この桐島がある日所属していた部活をやめ突然行方をくらますところから話が始まる。

何も理由を告げずに突然消えるので周囲は混乱し、それまで普遍的な存在である桐島がいなくなったことにより関係も悪くなっていきます。

この映画では桐島を神という一つのアイコンとしてみることができます。クラスメートたちは桐島こそすべてで彼のことを今まで信用して学校生活を送ってきました。そのクラスの象徴である彼がいなくなることにより何をするのか、何を信じればいいのか、どうすればいいかが途端にわからなくなることが浮き上がってきます。つまり自分で物事を考えられなくなる。いきなりはしごを外されてしまった彼らはなんとか桐島を探そうと校内を駆け巡ります。

 これは簡単に言えばクラスの人気者である彼がいなくなることによる周囲の感じ方を描いているように見えますが、実は「桐島」という神がいなくなることによりそれを信じてきた人々の戸惑いや迷いを戯画化して描いている。

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1953年に公開されたサミュエル・ベケットによる戯曲「ゴドーを待ちながら」にはある二人の男が「ゴドー」という人物を待っている。しかしこの二人は「ゴドー」という人物に会ったことがない。いくら待っても現れませんが、待っている。

 ゴドーという人物が何者かというのは全く明かされませんがここでいう「ゴドー」は神(God)を意味しているのではないかと思います。つまり神をいくら待っていたとしてもそれは現れてくれない。

 

じゃあ神はどこにいるのか?それにまつわる一つの回答がこの映画にあります。

 

ある日ジャレットはゼイヴィアという青年に出会います。彼の部屋に導かれたジャレットは思わず胸の内を吐露します。その時にゼイヴィアはこのように話します。

「神というのは自分自身のこと。みんなの中に、僕たちの中にある。自分自身が神なんだ」

 

一見すると「神」というのは自分の外側の存在としてあり、それを祈るものと思いがちです。しかし相手の弱さや自分の内なる苦しみを救うのかというと、それは自分自身が決めることであり、自分でその裁量を図ることができる。相手を許すも許さないのもそれはすべて自分次第であり、他者ではない。

誰かを待っていても自分の生き方を決めてくれるわけでもなく、それは自分で生き方を決めるということ。ゼイヴィアはそれを教えてくれたのです。

 

 神の沈黙

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「沈黙−silence」にも内なる神との対話をモチーフにしている。主人公のロドリゴは宣教師です。ある日彼の師匠が日本で宣教師をやめたとの一報を受け同僚と一緒に日本にやってくるという話。

 

この頃の日本はキリシタン弾圧が盛んでどうしてもキリスト教をやめない信者に対して重い罰を下したり、その究極の方法として政府が信者に対してキリストの絵が描かれた絵を踏まさせる事(踏み絵)を試されていました。現地の信者である人々をなんとか救おうとし、踏み絵の現場では戸惑う信者に対し踏むことを許すのですがそれでも弾圧は続けられる。ここではなぜ純粋に神を信じている人々が拷問や処刑されても、神は何もしないのか?という疑問や問いかけが伝わります。神が我々を見ているならばなぜ手を差し伸べないのか?宣教師である主人公は戸惑いを隠せない。旅の行く先々で弾圧される人々を目の当たりにし、まるでその旅が一種の試練として描かれる。

 

さて、この話には「キチジロー」という一人のキーパーソンがいます。彼は旅のいく先々で現れその度に許しを請う。

彼は自分の命が助かるならば“転ぶ”(棄教するという意)事を行い、人を裏切り、場合によっては唾を吐くなど、侮辱的行為を行います。けれども何度もキリスト教に戻る姿を見てロドリゴ達は嫌悪感を示す。

ロドリゴ達宣教者・周りの切支丹とキチジローの関係は真逆と言っていいくらいです。しかし両者を見比べてわかることが出てくる。

 

それは踏み絵というのは形式的なものであって、たとえそれを行なったとしても信仰心までは捨て去らない。一回の踏み絵で信仰が終わるのではなくキチジローのように何度も何度も転んだとしても神にすがることこそが大事なのではないかと。本当に大事なのはそれを信じ続けることなのだとキチジローは彼自身の行動で示します。それはひたすらまっすぐに、這いつくばってでも愚直なまでにキリストにすがる姿は、転んでも転んでもずっとキリスト教徒であり続けることが信仰そのものだと我々に教えてくれるのです。

終盤、ロドリゴも踏み絵を行うときが来ます。踏むのを躊躇しているとそこで初めて「それでいい。踏みなさい」という内なる心の声でキリストの声を受け取るのです。

主人公は転ぶ(キリスト教を棄教)ことを選び、その後彼が亡くなった時、密かに十字架を隠し持っていたことがわかってこの映画は終わります。

 

 いくら問いかけても神様は答えてくれません。「桐島~」でもどんなに桐島にメールや電話をかけても、名前を呼んでも彼は一向に現れません。しかし「桐島~」では桐島を信頼してた人物が彼がいなくなったことによりたくさん苦悩してようやく自分がやりたかったかもしれないものを見つけるところで映画が終わります。

これはつまり、自分がやりたいもの=自分の中に神を見出しだ といえるのではないでしょうか?

 

神というのは「いる」のではなく「寄り添っている」。外から見ているのではなく、自分の内に見出す存在が「神」なのではないか、と思うのです。

 

 父親(宣教者)との邂逅

「ある少年の告白」の最後、自分の父親と二人きりで話すシーンが出てきます。自分を助けようとしなかった父親と変わろうと努力しようとした息子。この映画の最後はそんな親子のある変化があったことが分かりこの映画は終わります。主人公は父親を許すのですが、これも自分の中に神を見出したからできたことだと思うのです。

 

総括

宗教とは?神とは?家族とは?と本当に考え支えてくれる作品で、今の時点での今年見た映画で一番いい作品でした。

 

この映画は古来からある普遍的な疑問を提示してくれた作品です。それはつまり「神はどこに?」ということ。これは哲学的な問題でもあるし非常にデリケートな問題です。

 

宗教を重視するあまり自分の家族を信じない、その問題から目を背けるために施設のいうことを盲目的に信じてしまう家族はたくさんいるし、同時にその親の言うことを聞くしかなく悲惨な目にあっている子供達もたくさんいる。家族に助けを求めてもそれをないがしろにされてしまい、結果的に最悪の状況に追い込まれる。

 

何を信じるべきか?キリストの教えに従うのか、それとも宗教を信じるのではなく目の前で苦しむ自分の子供を助けるのか。クリスチャンとして生きるのか、一人の親として生きるのか。今もまだ、アメリカで行われている現実の問題について考えさせられる1本です。

 

参考文献

大田俊寛(2011)「オウム真理教の精神史-ロマン主義全体主義原理主義」(春秋社)ISBN-10: 4393323319

オウム真理教の修業一覧『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』2019年6月2日8時(日本時間)現在での最新版を取得。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99%E3%81%AE%E4%BF%AE%E8%A1%8C

 発行者:大田圭二(発行日:2019年4月19日)「ある少年の告白-BOY ERASED」(映画パンフレット)

「シャザム!」見ました ※一部ネタバレあり

4/21に「シャザム!」見ました。

これはある日突然スーパーヒーローの力を託されたビリー・バットソンという少年の物語で、ただ強くなるわけではなく変身すると40歳くらい?の大人になり超人的なパワーを兼ね備えたヒーローになるお話です。

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あらすじ
14歳であるビリーバットソンは幼い頃母親と遊園地ではぐれてしまいそれ以来孤児となる。行き先の養家を転々とする彼は新たな養家に世話になる。その家の足の不自由なフレディをいじめっ子から助け、追ってから逃げ込んだ電車の中で不思議な体験をし、スーパーヒーローである「シャザム!」の力を授かるのだった。
早速ヒーローの力で遊ぶビリーたちだったが闇の力が徐々に彼らに迫るのだった・・・。


ヒーローとyou tube
ビリーとフレディはスーパーヒーローの力を録画し、それをyou tubeに公開します。その動画は数を増すごとに視聴者数も増え一躍人気者になり、町の人々も徐々に認識が広がりました。他人のスマホをビームで充電してあげたり、特殊な力を出すことで人を喜ばせたり、姿を隠して行動するというよりそれを大っぴらにしてパブリックな存在となっていきます。

2017年に公開した「スパイダーマン:ホームカミング」でも主人公であるピーター・パーカーはスパイダーマンでありますが、そんな彼もスーツに変身しているときは時折スマホで自身の動画を撮影していました。OPで「シビルウォー/キャプテンアメリカ」での空港の戦いを撮影したり、近所の人や困っている人を助け、その姿を写真で取られて新聞などに載っているのを見て楽しむ姿が見れました。この作品も自ら人前に出て注目されたいというティーンエージャーならではの気持ちがあふれていますね。

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2010年に公開された「キック・アス」でも主人公であるデイヴ・リズースキが緑色のスーツを着て「キック・アス」となり自警団活動をするのですが、ここでもその姿がyou tubeで拡散されTVでも報道されます。そしてデイヴはMy spaceにキックアス名義で登録し話題を集めるシーンが出てきますが昨今のヒーロー映画と動画配信サイト・SNSという存在は密接にかかわってきているように思います。

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昔のスーパーマンバットマンなどは、人前に出ることはあってもこのように自分から拡散するというシーンはなかったように思います。しかしティーンエイジャーが主人公でなおかつ10代特有の多感な時期だとやはり注目を集められたいもの。それを宣伝も兼ねた意味でネットにその姿を映すというのは若者らしさをとらえてとても面白いですね。

持つ者と持たざる者

この映画は冒頭、ヴィランの幼少期がまず入ります。彼は神殿に召喚されたとき欲望を試されますが、それに抗えず危うく魅せられるところで現世に帰されます。それ以来もう一度そこに行くために自らの人生を費やす過程が描かれます。
自力で神殿に行きDr.サデウスは闇の力を得ますがシャザムの力も得るべく、ビリーを追い回します。
また、ビリーの養兄弟であるフレディはシャザムの力を得たビリーに激しく嫉妬します。

この両者はある意味では主人公よりも純粋な存在です。それはすなわち純粋な憧れで、誰の心にもそれはある物。ヒーローを羨み、憎しみを
「何故自分が選ばれなかったのだろう?」「自分の方が資格がある」という心はどこか否定できる物でもなく、誰でもヴィランになるという危機感も感じられる。

魔術師シャザムは純粋な心の持ち主を待っていますが、正義感があるものとしての純粋さとただただ欲望をまっすぐに追い求める純粋さは主人公とDr.サデウスがまるでコインの表と裏のような存在であることがわかります。

ヴィラン=避けられない現実
前述の通りDr.サデウスはシャムの力を得るべくビリーの前に現れます。圧倒的な力の前に今まで力で遊んでいたビリーは怖気付き、とにかく逃げます。一切戦わずとにかく逃げ、結果的にフレディを巻き込む形にストーリーが展開していきます。ジリジリと主人公を追い詰めるサデウスは現実的な脅威として追いかけてきます。そう。それは避けては通れない「現実」。逃げても逃げてもひたすら壁となって襲い来る物。

途中本当の母親を見つけますがその実の親から拒絶され、突き放されてしまいます。そんなときにフレディーたち家族を人質にされるのを知り初めてヴィランに真っ向から立ち向かいます。それは避けられない現実から目を背けずに闘うことを決心した一人のスーパーヒーローになるのです。
最終決戦で力の差がありすぎ、負けそうになりますがフレディたちにシャザムの力を分け与えます。

一人で勝てないなら仲間と協力する。そもそも遊園地で実の親とはぐれてしまうビリーですが、彼にとっては遊園地=孤独の象徴でもあります。そこで仲間を得るということはここで初めて彼自身が過去を乗り越えたシーンに見えて感慨深いし、もう一人ではない。
彼自身が初めて他人を信じられるようになったからシャザムの力を分け与えるということは孤独からの脱却を意味していてとても感動的でした。
ビリーはこの時もう一人ではなく、本当の家族を得る瞬間でもあり、他の子供達もここで初めて「現実」に立ち向かう。

姿は大人ですが、周りの大人の力を借りずに子供達自身で困難に立ち向かうというのは自分で乗り越える大切さなどをさりげなくまぶしてあり好感を持てる作りでとても良かったですね。

自己を確立する旅『グリーンブック』※ネタバレあり

監督は「メリーに首ったけ」(98年)「愛しのローズマリー」(01年)を手がけたピーターファレリー監督。トロント国際映画祭 2018で観客賞受賞。そして本年度アカデミー作品賞5部門ノミネートの話題作がついに日本上陸。

 

人種の違う二人が音楽ツアーのために2ヶ月間旅をすることで互いの価値に気づき共鳴していくバディ作品。

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 ストーリー

時代は1962年。そこはニューヨークに位置する一流のナイトクラブ『コパカバーナ』。そこで用心棒を務めるトニー・リップ(演:ヴィゴ・モーテンセン)は腕っ節もよく、時にはハッタリもかます凄腕の従業員。がさつで不器用だが家族や仲間を大切にするナイスガイ。ある時お店が改装のため2ヶ月間閉店となってしまうため別の仕事を見つけなければならなくなり探しているところある人物が運転手を探していると紹介される。トニーが訪れた場所はカーネギーホールでそこにいたのは劇場の上のマンションに住んでいる黒人ピアニストであるドクター・シャーリー(演:マハーシャラ・アリ)。シャーリーはピアノコンサートを企画しておりコンサートツアー中の運転手を探しておりトニーが選ばれる。こうして二人の旅が始まるのですがその先に待ち受けていることは…

無意識内の拒絶心

本作を観てまず思ったのが、誰しもがある時に見せる差別心をあぶり出す場面がとても自然に描かれていることでした。

白人と黒人の人種問題。それは何十年という歴史上で避けては通れない問題。そしてそれは昨今の時代にも拭えないものとして我々人類の間ではびこっています。肌の色が違うだけで忌み嫌い、白人と黒人を隔離し、一方は清潔な場所を使いもう一方は不衛生な場所で物事を強いられる。

これまで作られたいろんな映画にもその問題から真正面に取り組んでいる作品は沢山あります。そしてそれらは観客である我々も、そのスクリーンで見ている間はそれを考えたり、見ることで何か感情を揺さぶられる。

 

本作もそんな差別の一端を描いているのですが、見ていくうちにこれまでの映画で描かれた展開と少し違うように感じられました。それは、誰しもが心の底にある差別心をふとしたことで自然に描いていること、でした。

もちろんわかりやすい展開はふんだんにあります。白人のみ入れるバーに一人で入っただけでそこにいる客にボコボコにされたり、警官がわざと挑発して殴らせ、署内の独房に入らされたり。そのシーンだけでも見ているとかなり居心地が悪いのですが、そういう「目に見える暴力」とは違った表現にフォーカスを当てています。

 

ドクター・シャーリーはピアノの才能があり、その腕は当時の大統領のパーティーに招待されそこで腕を振るえるくらいその才能は択一されたものでした。その腕を買われ富裕層のパーティーに招かれてはピアノの腕を披露しています。色んなお屋敷に招かれピアノを弾くのですがあるシーンで彼はそのお屋敷のトイレに立ち寄ります。しかしその場で止められてしまい、トイレを尋ねると外に設置されてある小屋を指差され「黒人はあちらです」というシーンがあります。そして次の町では用意された楽屋がものすごく窮屈な物置部屋であったり、また、最後のバーミンガムでのレストランではやはり黒人は立ち入り禁止でその理由が「昔ながらの土地柄」というだけの理由でNGをくらいます。

 

感情むき出しで黒人差別をしたり、露骨に暴力を振るう作品は今まで見てきました。しかしこの一連の会話の流れの中でそれを何の不自然さを感じず、さも当たり前のように告げる描写がきわめて自然なタッチで描かれて、今までの差別を扱った映画とは一味違うように感じられました。その風潮が当時としては「当たり前」という価値観になっているのはやはり見ていていたたまれないものを感じざるを得ない。

 誰もが持っている無自覚さ

トニーは道中、フライドチキン屋を目にしそこでチキンを買います。それを食べながらシャーリーにも渡そうとするのですが拒否されます。「黒人なのにチキン食べないの?」と思わずトニーは口走ってしまいますがここでも、「〇〇だから〇〇が好きに違いない」という誰しもが他人に対して一度は思ってしまうことが実は相手にとっては当てはまらないという誤解についてもディティールの一つとして取り入れているのでものすごくきめ細やかに綴っており、思わず感心してしまいました。

 

この映画の冒頭、トニーの家に黒人の修理業者が訪問し、帰る際にグラスに注がれたレモネードを飲み干します。それを見ていたトニーは業者が帰ったのを見てそのコップをゴミ箱に捨てます。他の映画だったらここで感情を爆発させて黒人を叱責するでしょう。しかしこの映画は感情を爆発させるシーンが少なく、ほんのちょっとした行為で人の嫌なところをリアルに描いている。それがまるで日常の一風景としてそれを入れることによって極めて普遍的なものであると感じます。

冒頭から別の人種に対し嫌悪感をもつトニーですが、しかし後のシャーリーとの会話で自分はその嫌っている黒人が生み出したR&Bやジャズを何の偏見も持たずに聴いていることがわかります。この「矛盾」も実に素晴らしい。

自分の価値観の無自覚さ。自分ではわからずとも他人から見ると気づく価値観の表れ。

そしてそれを見ている我々も「もしかしたら自分も同じことをしているかもしれない」とハッとさせられます。

 

そして中盤の雨に打たれながら「自分はこれほどまでに辛いんだ」と言い合うシーン。二人ともそれぞれマイノリティさを感じそれに打ちひしがれているけど相手も同じなんだ、自分も辛いが相手もこれだけ辛いんだとわかるシーンですが、これは「口に出して相手に伝えることがいかに大事なのか、思っているだけじゃ相手に伝わるわけもなく、お互いの主義主張を口に出して初めて意思疎通ができる」という、当たり前かもしれないけど人と人との関係で一番大事なコミュニケーションも形として描かれているのも素晴らしい。

 

人種が違ってもお互い疎外感を感じ、トニーはイタリア系でも「白人」であるからアメリカで何不自由なく生きていると思いがちで、シャーリーは黒人だけど自らも資産がたくさんあり、金持ちとの交流や大統領とも面識があるから生活に困っているようには思えないように見える。表面上だけ見える姿で人というのは物事を捉えがちですが、腹を割って話すことでようやくわかることがある。

 

非暴力を貫く不屈さ

 コンサートを終え夜中車を走らせるトニーとシャーリー。しかし後ろにパトカーが追い付きサイレンを鳴らされ止まるように言われます。唐突な職質を受けますが、後ろの座席にシャーリーがいるのが警官にわかります。それを見るやトニーに挑発をかける警官。思わずトニーは殴ってしまい、二人共独房に入ることになります。トニーはあまりのことに憤るが、反対にシャーリーは冷静に「暴力で解決しないこともある。己の尊厳で闘うんだ」と諭します。

 

その言葉は暴力を固辞し、徹底的な「非暴力」で戦った「マーティー・ルーサー・キング牧師」と重なるものがあり、彼の思想の根強さ、黒人解放のイコンでもあるとやはり見ていて思いました。

 

旅の果てで見つけたアイデンティティ

トニーとシャーリー。紆余曲折を経てたどり着いた最後の街であるバーミンガム。そこでもコンサートをするのですが、ライブの前にレストランに立ち寄ります。しかしやはりここでも黒人はNGと突きつけられます。支配人を問いつめるトニー。しかしそれ以上のことはせず2人はレストランを後にし、場末のバーに向かいます。そこは黒人の憩いの場となり、誰もが自然体で接することができる場所でした。その酒場の奥には1台のピアノ。思わずシャーリーはそのピアノに近づき、演奏の姿勢に入りました。

 

正直そのピアノは今までの旅で見たような、高価なグランドピアノではありません。質素な作りで値段も圧倒的に違うのが目に見えます。そのピアノを見つめ、思わずそれを手に取ります。やはり音楽家であるシャーリーはそこで曲を弾き始めます。弾いているうちに笑顔になるシャーリー。今までの旅では金持ちの白人のために演奏していました。ピアノも指定の物を使い、弾いているというよりはその人たちのために弾かされているような、見ていてちょっと息苦しさを感じるような、そんな感じに見えました。しかしここでは本当に弾きたい曲を弾き、観客のためにその手腕を振るう。

 

曲がった考えかもしれませんが、白人のために演奏をする姿は彼らのいいなりになっている奴隷のままである。しかし最後の酒場での、思いっきりピアノを弾き、人々の笑顔のため、そして何より自分のために演奏する姿はその支配からの脱却を描いている。そして何よりそれを手伝ったのは白人系であるトニーだった、というラストは感慨深いし本当に良かった、と思える旅の終わりでした。

 

痛みを分かち合う映画

この映画の最後はトニーの家のクリスマスパーティーにシャーリーが向かい入れられるラストで締めくくられます。二人とも全く正反対の国で育ちしかも当時の時代では根強く人種差別が残っている時代でした。そんな時代に一緒に旅をし、ときにはぶつかり合い、共に様々な経験をし、様々なものを目にし、最後にわかり合うこの映画は互いの価値観というのはいかにずれているか。そして互いの感情を吐露することで理解し合うことの尊さというのがよく現れた映画でもありました。また、差別というとどうしても悲しくなると思いがちですがこの作品はそれもありつつ随所で笑えるシーンが多々あり、鑑賞後は穏やかな気持ちになりましたね。ただ偏見を描くのではなくその奥のほうまで見れる作品でおすすめの作品です!

 

 

『MIHOシネマの映画愛』~また私は如何にしてMIHOシネマを愛するようになったか~

みなさんこんばんわ。

いきなりですが、人はどんなときに映画を見るでしょうか?
なにかスカッとしたいとき、話題になってるから見にいったり、その監督のファンだから見にいったり、興味があるから劇場に向かったり。一人一人なにかしらの理由があって映画を見ると思います。

映画というのは娯楽の側面もありますが、自分はその時代に起きていることが反映された一種の外部記憶装置だと思っています。そして同時に人生の指南書だと思っています。

自分には経験できない、映画の登場人物が体験したことを擬似的に見ることで何かを学んだりそこから影響を受けることもすごくあると思います。監督の実体験や頭の中を映像で表現する。観客である我々はそれを見て何かに突き動かされたり、歴史上で起こったことを役者が演じることで知らなかった事件を知ることができたり。

国と国の関係性や登場人物一人一人にナショナリズムを持たせそれを戯画化して見せたり。学校で教わったことがない、又は教科書では計り知れないことを教えてくれる存在だと勝手に思っています。そう考えるとこれほどまでに映像で様々な事情を表現できる媒体はなかなかないのではないでしょうか?


今日はいつもと趣旨は違いますが、映画ブログの紹介をしたいと思います。

というのも何を隠そう私は、人のブログやアカウントをあまり紹介しようとしないのですが(人と比較してしまうから勝手にネガティブになるだけなんですけどね💦)、
「この方の書くブログは読みやすい!」と素直に感心し、またとても魅力的に映画の感想を語ってらっしゃるブログがありますのでご紹介したいと思います。

「MIHOシネマ」開演

MIHOシネマとは“影山みほ@映画好きOL”(@MIHOcinema)さんが運営している映画ブログの名称です。取り上げている映画のジャンルは最新のものから古きに渡り幅広い年代を扱っており、その数はとてもバラエティーに富んでいます。俺もぼちぼち映画を見ているつもりですが、それでも観たことがない、聞いたことがない映画まで紹介されているので、いつも参考になります。


twitter.com

mihocinema.com


MIHOシネマのここがいいところ

1.ジャンルの広さ

取り扱っている映画のタイトル、6000以上。
リストにある映画のジャンル数、23。

どうです?幅広いでしょう?
以前にも別の映画ブログを複数見たことがあるのですが、せいぜいそこで扱っている映画はリアルタイムで公開されている作品。古くてここ10年以内に公開された作品、と言うのはよくありました。何を隠そう私も最初、MIHOシネマを初めて拝見させてもらったときに、どメジャーな作品ばかりでしょ?と思っていました。

しかし見たことも聞いたこともない、東洋問わず、アニメ、ヒューマンドラマ、サスペンス、ドキュメンタリーなどありとあらゆる映画についてレビューを書いていたのは正直びびりました。また、俗に言う「B級作品」も抑えているのは流石の一言。

皆さんもふらっとレンタルビデオ屋さんに入ったことがあるならわかると思いますが、棚の隅っこにあるようなパッケージが面白そう、派手!だけどいかにも地雷なような、見たことも聞いたこともない監督、役者が出ている映画があり、面白そうだけど見る勇気がない…ザ・キワモノ!というそんな映画まで余すところなく紹介しています。「もしかしてこのお姉さんには知らない映画はないのでは?」と思わず戦々恐々になったことを今でも思い出しますw

2.簡潔なあらすじ・キャラクター紹介

MIHOシネマでは記事を書く時に簡単な作品情報から入り、次にキャラクター紹介→あらすじ→まとめ、という流れになっています。あらすじは起承転結でまとめられ、その中身の文も必用最低限でまとめられており、非常にみやすくそして目で追いやすい設計になっている。要所要所でポイントでまとめられており、エッジの効いた文体でまとめ上げられているので軽やかに読めるのが魅力だと思います。

決して難しい言葉や横文字を使うことなく書き上げられているので本当に読みやすい。読み手のことを考えて編集なさっている。先にも書いた通り、複数の映画を扱っているのにも関わらず、特定のジャンルに偏見を抱かず、自分の目で見て記事を書く様は映画愛に溢れているし、自然な文調なので読む側も安心して読めるのが嬉しい。

3.映画初心者にも優しい

ツイッター内では「今日公開の映画」と題してみほさん自身がピックアップした映画を書いており、迷っている人向けに定期的に紹介しているので、自然と選びやすくなります。全く映画がわからない人でもこれだけ映画に対して実直に向き合っているMIHOさんだからこそ選ぶ映画を毎回ツイートしているので、気になる方はぜひtwitterでフォローをするとすぐチェックできるかと思います。

また、役者の方にフォーカスを当てて、「○○(役者の名前)が出ているおすすめ映画5選」と題して紹介しているところもポイントの一つ。皆さんも何気なく映画を見ていると「あれ、この人別の映画でも出たな」と一度は思ったことがあるのではないでしょうか。俺なんかこの映画にこの役で出ているけど別の映画では真逆の性格で出ているなど(悪役だった人が別作品では善人としてでてきたり、敵側だっだ人が他の作品では主人公の見方として出てきたり)、そういう所を見ると嬉しくなるのですが、役者の名前がわからなくても顔は何回も見たことがある!と思う方は結構いると思います。「おすすめ映画5選」ではその役者を知らなかったとしても映画を知るきっかけになるし、MIHOさんが上げた映画以外でもほかのフォロワーの方が映画のタイトルを返信しているので、どんどん視野が広がります。フォローしているだけでも自然と映画について学べるところも魅力の一つですね。

番外編 料理上手なお姉さん的な一面が素敵!

さて、ここまで映画のことについて書きましたがもう一つ、俺がグッとくる魅力があります。
それはなにかというと・・・とてもお料理上手なところです!!!
ツイッターでは映画を様々紹介しているMIHOさん。それ以外にも手料理の写真をアップしています。どれもこれもすごくおいしそうで、お腹が減ってくること間違いなし!また別の一面も見れて本当に面白いです!こんなに映画に詳しくてしかも料理上手なんて・・・。こんな奥さん欲しいですよ(:_;) あっ。肝心の料理の写真はぜひ、ツイッターで一度ご覧ください。

まとめ

というわけでMIHOさんについて書いてきましたが本当におすすめのブログです。いつもたくさん映画を紹介しているので「毎日見ているの?」とか時間をいつ作っているのか不思議ですが継続して映画を紹介し続ける姿は凛々しくて見習わなければいけないと思いました。是非一度ご覧になってみてください。きっと気に入る映画が見つかると思いますよ!

5品目:趣味が追いつかない

ここ最近のゲームリリース速度がやばい。というのも毎年口から出ている気がしますが、今年は本当にヤバい。

 

まだ積んであるゲーム、映画、Netflixアマゾンプライムで見られる海外ドラマが急速に増えていう一方、ゲーム業界では毎月のように大作が控えています。

 

加えて、トレハン系のゲーム、いわゆる「エンドコンテンツ」と呼ばれる終わりのないゲーム作品が加わると本当に終わりません。体が後100個くらい欲しいかな・・・。

 

ゲームがたくさんあり、並行してさまざまな作品をやる人の脳が羨ましいです( ; ; )

 

どうやって時間を捻出するのか。はたまた頭を切り替えてやっているのか、気になると同時にコツなんかも知りたいですね。

 

そんな俺もエンドコンテンツの1作品である「division」という作品に熱を上げております。

 

次回はそんな作品のプレイ日記なんかも書いて行こうと思うのでよろしくお願いします。